プロフィール2
私の青春時代
学生時代を東京で過ごし、社会に出て神戸で2年余り、東京で5年ほど働き、30歳で再び神戸に戻った。田舎育ちの私の青春時代は東京・神戸での日々と分かち難く結びついている。
大学入学は昭和46年(1971年)。70年安保の余韻が色濃く明治大学のキャンパスに残っていた。そこに授業に出つつアルバイトに精を出した。食事付きの食べ物屋が長かったが、家庭教師、キャバレー、日雇いの工事現場で稼いだこともあった。
その一方、西洋史研究会という硬派のクラブにも属していて、当時盛んであったベ平連などのデモにも顔を出し、また、神宮球場などでの応援にも熱を入れていた。野球の島岡、ラグビーの北嶋、2人の老いたる監督の指揮に腹を立て、ヤジりながらも彼らの頑固一徹さを愛した。「前へ!前へ!」というスピリットが好きだった。
大学2年の冬、住んでいた木造アパートが全焼という災難に遭ったが、それよりも衝動的であったのは、母校である兵庫県立八鹿高校で起きた部落解放同盟による教師への集団暴力事件であった。正義を振りかざす集団ほど、抑制が利かず恐ろしいものはない。
就職は運よく国家公務員上級甲種と故郷兵庫県の両方に合格したが、自治の改革の先駆けたらんという想いで兵庫県に入った。最初の配属課で知り合ったのが、当時はうら若き女性だったカミさんだ。プロポーズから結婚にまで熱いエネルギーを費やした。使い過ぎてその後の私は女性に対して淡白になっている。
昭和50年当時の兵庫県は部落解放同盟と厳しく対峙していた。坂井時忠知事は、行政自らの主体性確保を絶対に譲らず、同盟の窓口一本化要求を断固撥ねつけた。信念の人とはこのような人を言うのであろう。行うべき時にしなければ、そのツケは必ず回って来ることを、最近の自治体同和行政を見ていると痛感する。
県庁に入って2年経った頃、自治省との人事交流で5年程、中央省庁で働くこととなった。20年代後半に使命感を持って霞が関で働き、法案の作成過程、仕事のコツを学び、石原信雄氏など「志を持った官僚」と身近に接することができたのは今でも大きな財産だと感じている。ただ、仕事に熱中する余り、家庭はカミさんまかせだった。子育てが大変な時期のカミさんへのツケは今でも重い毎日だ。